厳島合戦図(一部)
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宮島物知り図鑑
宮島の歴史概要

宮島は太古からその島の姿と弥山を主峰とする山々の霊気に満ちた山容から、周辺の人々の自然崇拝の対象となっていました。推古元年(593年)、佐伯部(さえきべ)の有力者であった佐伯鞍職(くらもと)が現在の場所に嚴島神社を創建。大同元年(806年)には唐から帰朝した僧空海(弘法大師)が宮島に立ち寄り、弥山を開山したと伝えられます。

嚴島神社は平安時代末期、安芸守から太政大臣に昇りつめ栄華を極めた平清盛とその一族の守護神として篤い信仰を得たことから、世に広く知られるようになりました。神主・佐伯景弘は清盛の援助を得て、竜宮城や極楽浄土を模したともいわれる華麗な海上社殿を造営。この平安時代には清盛をはじめとする平家一門ほか、後白河法皇・高倉上皇・建礼門院ら多くの皇族や貴族が社参しています。平家が壇ノ浦に滅んだ後も、鎌倉幕府や室町幕府、地元の領主大内氏や毛利氏、また天下人となった豊臣秀吉も嚴島神社を信仰し、篤く庇護しました。

宮島は神職や僧侶でさえ島に渡るのは祭祀の時のみで、島に上陸する際も厳重な潔斎(けっさい)が必要でしたが、宮島信仰が世に浸透していくにつれ祭礼・法会に参集する参詣者が増え、鎌倉末期になると神職や僧侶、次いで役人や庶民が住み始め、町が形成されていきました。さらに室町時代に入り物資の流通・交易が活発になると、交易・商業都市、瀬戸内海の要衝をなす港湾としての性格を加え、神の島は急速に変貌を遂げていったのです。

戦国時代には日本三大奇襲戦の一つに数えられる弘治元年(1555年)の厳島合戦の舞台にもなりました。主君大内義隆に反旗を翻し、義隆を討った陶晴賢に対し、兵を挙げた毛利元就は暴風と暗闇にまぎれて対岸の地御前から3500の兵を引き連れて密かに包ヶ浦に上陸。塔の岡の背後の尾根である博打尾(ばくちお)に登り、一気に陶軍の本陣めがけて攻め下りました。陶軍は混乱し、戦うすべもなく敗走。中国地方や豊前・伊予を支配するようになった毛利氏は、その後の嚴島神社の発展に大きく寄与しています。

江戸時代になると福島正則が安芸国の藩主となり、宮島の商業・廻船業を保護。続いて藩主となった浅野氏もそれを継承したことから、この時代は交易の中継基地・瀬戸内地方の文化の中心地として栄えました。

江戸時代の嚴島神社は社家を代表する棚守、供僧を統括する大聖院、寺社造営修理を掌った大願寺の三者による経営体制が維持されていましたが、明治維新後の新政府は明治元年(1868年)神仏分離令を発令。寺院の多くは廃寺となり、嚴島神社や千畳閣・五重塔にあった仏像も大聖院や大願寺に移されるなどの混乱がありました。明治4年(1871年)嚴島神社は官幣中社となり、明治8年(1876年)には傷みの進んでいた大鳥居が建て替えられ現在の8代目が完成。江戸期には芝居や富くじ興行、遊郭で賑わった島内も新しい時代にふさわしい観光地として近代化が図られ、明治の半ばの山陽鉄道宮島口駅開業、宮島航路の開通により多くの観光客が訪れるようになりました。

大正12年(1923年)に全島が国の史跡名勝、昭和4年(1929年)に弥山北麓の原始林が天然記念物、昭和27年(1952年)に全島が特別史跡・特別名勝の指定を受け、さらに平成8年(1996年)嚴島神社とその背後の弥山一帯が世界文化遺産に登録されました。

人と神々が共に生きる島 日本三景 Miyajima